医学の要諦について思うこと

 患者は生死を前にして病気の科学的説明だけで納得できるのか?私なら、納得できないと思います。医学は科学を基盤としていますが、科学だけではありません。科学は事実(審判)の世界であって、冷たい一面があります。医学は科学に依るが科学を超えて、弱き者、望み破れし者が羽を休める世界であるべきで、このことは、現代人あるいは現代の医学教育では軽視されていますが、私は医学の要諦であると思います。

 

 医学は、生命(いのち)の科学であると同時に、いのち限りある者がいのち限りある者を癒する実践の学です。私は、母の病気を機縁に小学生の頃、長い病いに苦しむ患者の傍に居て、分からないことは研究室に持ち帰って研究する、そんな医師を目指しました。しかし、医学部を前にした高校生の頃、母から「あなたはきれいな花を愛でるが、路傍の花に目をとめない」と言われ、そんなことはないと反発したものの、その後、「真に人を愛せるか?」が一生の課題になりました。

 

 私は聖徳太子を敬愛しています。私の座右の書、太子のご著書三経義疏の一つ、勝鬘経義疏(しょうまんぎょうきしょ)の中の「行善基在帰依」(善を行うの基(もとい)は帰依(頭を垂れて教えを乞う)に在り)には随分と励まされて来ました。法華経義疏(岩波文庫)には、動物達が山火事から逃げて崖に直面し絶対絶命のそのとき、大きな鹿が現れて身を横たえその背で動物達を対岸に渡らせ、その後鹿は力尽きて谷底に落ちた、とありました。医師はこの鹿だと思いました。鹿の如く谷底に落ちて大丈夫か? 私はこれまで白い巨塔に生きて、他より己を優先する我が身を省みています。聖徳太子の「世間虚仮 唯物是真」(勝鬘経義疏)は、仏教は巷の社会批判とは異なって、「世間」すなわち社会悪も自らに責任があると受け取るので、世間はすなわち私自身です。「世間虚仮」は太子ご自身の痛烈な反省であると思います。

 

 若い頃、「仏の教えは鳩が翼に水を付けて山火事を消しに行くようなもの」と恩師宮地廓慧和上(本願寺勧学、京都女子大名誉教授)から教えられましたが、鳩が運ぶ水など現実には役立ちません。しかし私は今、行為が真実ならば永遠の時空にかけて成就する、のではないかと感じています。顧みると、世の偉大な事象は、投獄の末南アから人種差別を撤廃した故マンデラ大統領も、ナイチンゲールも、すべて真実に端を発しています。昔インドの長者がお釈迦様を歓迎すべく道中に万灯を灯し、そこに貧者が一灯を寄進しました。いざお釈迦様がお出でになると、大風が吹いて万灯が消えた中、貧者の一灯は高く燃え上がり梵天まで照らしたとあります(法華経義疏)。

 いのちは本来、何年、何才と固定されておらず、刻々に死しては生まれて動的です。だからこそ、「日々新た」であり、道元禅師が仰る通り、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えて 涼しかりけり」(道元禅師)と、生きとし生くるいのちは自然です。そのいのちに、医師として寄り添い、多少とも癒すことができれば、そして出来る限り真実であるように、心掛けたいと思います。